昭和42年10月29日 朝の御理解
 【入力者: 末永 満】
 信心はまず拝むことを教えられます。拝みなさい、拝まにゃいけません、とまずその拝むことを教えられます。そしてそのそれを拝むことがやはり拝まなければおられない、拝まなければおられないというような(区別)ができる。また、拝まなければおられなくなってくることが信心なんです。

 拝みなさいと、お参りしなさいと、拝んだり、参ったりすることを導かれたり、教えられたりいたします。それが段々お参りしなければおられない、拝まなければおれないというように段々なっていくことが信心が育っていきよるのであり、本当の信心になっていきよるのでございますね。

 そしてその拝むということが、ここで拍手して拝むということだけではなくて、もう自分の周囲の一切が拝まれる。(?)ことを四方拝と申しますね。自分の周囲を拝む、四方拝。というのは、元日の心でおりますと、自分の周囲の皆がめでたい者に見えてくる、いうなら、有り難い者に見えてくる。

 ですから自分の周囲の一切を拝む。いわゆる、元日のような心で暮らせば一日一日が有り難い。いわゆる、めでたい心で過ごせば(?)、そこでいつも有り難い、めでたい心にならせて頂くためにはなら、どういうようなあり方にならせて頂いたらよいのか、と。どういうような道を歩かせて頂いたら心がいつも賑々しく、有り難い、しかもめでたい。

 皆さん、今日もおめでとうございますと。例えば、(?)、そういう心もちになれれる。そういうふうに私共の心が段々成長していく、育っていく。これは、対象が神様だけではございません。拝む相手というのは神様だけではありません。信心生活というのは自分の周囲のもう誰でも、どんなことでも拝ませてもらう。なぜ拝ませておらなければおられないかというとですね、本当なことが分かってくるからなんです。

 いわゆる、教祖の御教えを頂きますと、信心する者は肉眼をおいて心眼を開けよとこう仰る。肉眼で見える世界では腹の立つことであったり、痛いことであったり、(?)にあるけれども、心目をもって見ると、それが有り難いことである、神愛の現れであるということが分かってくるんです。

 ですから、どうでも肉眼をおいて心眼を開かせて頂けれる、本当なことが見えれる、本当なことが分からせてもらえるところまで信心を進めていきませんことにはです、本当の四方拝にもならない、本当の有り難い生活ができないということになります。これだけは有り難いけれども、これは有り難くないというのであったら、もう有り難くないところには本当の幸せはありませんもんね。

 あれも有り難いな、これもおかげであるとこう、分からせてもらうということは、肉眼をおいて心眼を開かなければいけません。そこで、拝みなさい、拝みなさいと言われる。不思議にこう、そのことを拝んでおるうちにですね、やはりその本当のことが分かってくるですね。

 昨日私ある方のお取次ぎをさせてもらったんですけれどもね、話を聞いておりまして、まぁどうして、どうでしょうかね。そういうようなことを言うてから、そういうことを思ってから、しかもそれを人にそんなことを吹聴してから。ほんなこって、この人が(はやかやせとるならば、)(?)ことになる。

 どうしたことをいう人じゃろうかと、私が聞いて思うんです。ね。もうほんとにそんな人はもう世の中の、世の何と申しましょうか。世の中をこう乱していく人です。この人、この人(?)。(?)、ほんとにこの人は誰もない手をついて誤らねばならないようなことを(?)。

 あげなんやつがおるけん私は、金光様の信心をしよごつなかと、例えば周囲の人を(?)平気で言うたり(?)人があるということでございました。私もそれを気付かせて頂いてから、そんなこつですかち。見てもやはりびっくりしたことでございますけれども。

 そのことを取次ぎ、いわゆる、お取次ぎをさせて頂いておりましたら、頂きますことがね、御大祭の時にね、沢山の様々のお供えがございましょう。いわゆる、(?)、やはり御信心(?)お供えをされますですよね。

 その中に一番最後にこの塩水というのがお供えありますよ。ここではあの、鈴の水玉に横に塩がこうピラミッド形にもったのが一番最後にお三方の一番最後にお供えなりますね、あれは塩水と申します。まぁ、これは神道から来た(?)けれども、神様にいろんなものをこう(?)頂く、それにやはり、味をつけなければいけないというのでございます。
 ですから、最後にその調味料としてですね、いわば、塩水をお供えするものだといわれております。そのことを私神様にお願いさせてもらいましたら、その塩水を頂くですよ。はは、この人は私が見たり、私が聞いたり、いわゆる、人間が聞いたり、人間が見たりしておると、とんでもないやつら、ほんとにいつも(?)やつらと、しかも信心しよって、(?)平気で人に(?)をかける。

 しかも、その人のいうなら、人権でもその犯すようなことを平気で言うておる。しかもそういうこといやものごと間違いなか、その次々と伝わっていきよる。どしたじゃろうかと、例えばというようなへんなことであってもです。

 神様の目からご覧になるとですね、まぁいうなら、はぁあの人は素晴らしいという信心の人は鯛になるかもしりません。はぁ、あの人は素晴らしいという人はいうなら、お神酒のお供えかもしりません、お野菜のお供えかもしりません、果物のお供えかもしりませんけれども。

 やはり最後にはですね、その塩水のお供えがなかなければ、いわゆる、味わいがつけありませんようにです、その人は様々なことにいうならば、味をつける役目を受けたまっておる、塩のような人だということです。

 人見るとその人の軽軽しいどうさも表現もです、いうならば、はは、あの人はああいういわば、あまり人から(?)がない。(?)人に悪く言われる。はーこれは辛い辛いと言われるような役を受けたまうておるけれども、その(?)味をつける役をしておるんだなということが分からせて頂くんでございます。

 人見ると、その人のこともやっぱりご苦労様ということになるわけでございます。まだお互いがですね、せっかくなら鯛のような人にならにゃいけませんですね。有り難い、もったいないお神酒のようなならにゃいけません。それこそ、しんせんな果物のような人にならにゃいけません。

 お互いが塩のようなことになっちゃならんのですけれども、その塩の私共の性格の中にです、例えば、一家なら一家の中に、もうこの人ばかりはというようなその人家の中におりましてもです、それは家の中の全てのものに味をつける御用しておる。こっちらの頂き方一つでは、素晴らしい味がつくということなんです。

 病気をしておる、それは中々その病気そのものは拝めないけれどもです、その病気のそのものがその人の信心の味をつけておるということが分かってきたらです、その病気(?)わけですね。その、その病気(?)信心が分かるようになってきたんだもん。やっぱりじんしに味をつけておられる。

 病気そのものは誰でもいやなんですけれどですね、(?)難儀な問題こと(?)なった時には、その病気の招待というものを本当に分からせて頂いて・・・先日のここの村家の方が(?)亡くなりました。

 もうほんとに涙ながら言われるんです、先生もう私のようにその悪い家があるでしょうか。(?)。息子が今度はまたこんな病気いたします。しかも(?)のに、あっちにも行かにゃん、こっちにも行かにゃんもうほんとにこんな難儀なこと(?)ありましょうかと言うてそのお届をされる。まぁ、聞けば聞くほどそんなことじゃないですね、

 けれども、まぁ、今日の生き方から行くとですたい、本当なことが分かってくると、例えばその難儀な問題、その難儀のめぐりのお取り払いでもあろう、または、そういうような味をつけることのための神様のご都合でもあろうということに、本当なことが分かってくるですね、そのことがお礼が言えれる。

 信心とはね、拝むことを(?)。拝みなさい、また、拝むことを教えらると同時に、何故拝まなければならないかということを教えられる。難儀な問題というけれども、その難儀は問題ではない、それは神様の氏子かわいいという思いの願いの現われだ。こういう難儀な問題になっておるその事柄、そのわけ柄を教えて頂く。

 それが(?)ではそうと重い難儀だけれども、それを拝まされておるうちに成る程、あれもおかげであったこれもおかげであったというなことが分かってくるわけなんですね。
 昨日ある方が、ちょうど夜の御祈念前にお参りして来た。まぁ賑やかな方ですけれども、もうおじいさんです。そこの(?)もう椛目の始まる頃から信心をしておりますけれども、お参りするのは(?)。

 もうそれは、それはもうほんとに夫婦の仲悪い。もう一緒に参って来る家でもけんかしてくる。そのおばあちゃまの方がここに来てからお届をされたことがございます。もう親先生私はもうほんとにもう家のおやじござること一緒に何十年間生活してきてです、もうほんとにもうこげんな人はおらんとこう言われます。
 
 そして私、子供達言いよります。(?)。そげんおやじが嫌い(?)。(?)とてもじいさんの方になったら、もう家のばばが言うてその悪口を言われる。(?)でんわをしてからね。もうちょいっと親先生(?)。もうちょいとそれはなんでもかんでも拝む(?)。

 それはばってん先生、(?)。(?)。あれがほんま拝む信心ちいうのございます。私共が(?)の先生。こげんおがけを頂いとるけんちいうてから、(?)。

 けれども段々その拝ませて頂けておる家にです、十年立つうちにこの頃ばあちゃまが、(?)言わんで済むようになった。出、このじいちゃんがあげん信心するなったけんで、ばばが信心するけん、ちーった変わってきた、両方も言うようになっておる。ね。夫婦がほんとにこう拝み合いてくるようになってきた。

 だからですね、そのほんとにその拝む割合には、おかげが頂け切らん。そういや、迷いばってんから、参って割合にはあそこおかげをいただかにゃじゃなかのと、言われるような人をですよね、、またそう自分で思えれる人をです、やはりそこに何か一つ感じなければいけませんですね。

 本当なことが分かっとる(?)じゃない。拝むくせがついておるだけだというなことになったんじゃいけないでしょうが。いわゆる、拝まにゃおられんというそれが拝んでおるのじゃなか、拝まにゃおられんというものになってこない。

 そのへんのところをですね、お互いが信心になっていくことなら、そういうところを一つ対象。本当に自分もそこにお参りもしよる、そこに拝むもしよる、御用も頂きよる。けれどもその拝む割合には、いうなら、参りおる割合にはおかげが頂かん。あの人は特に、(?)しよらんばってん、(?)仕事のおかげだけ頂きなさる人もある。

 だから自分の拝みよる割合にはおかげを頂き切らんというようなところにです、本当なことが分かってなくて、拝みよるということになってくるとです、ただこうやっていわゆる、拝む信心になってしまっておるようになかろうかということを私は反省しなければいけないと思うんですね。

 信心は拝むことをぎょうようされる場合によっては。または、拝みなさい、拝むことを教えられる。わけ分からんなりに拝みよる。それが段々拝まなければおられなくなってくる。それは信心が育ってくるからである。しかも本当のことが分かってくるからである。拝むということは、神様だけじゃない、段々段々信心が分かってくる、あれもおかげこれもおかげと、自分の周囲の四方拝じゃないけれども、自分の周辺の一切を人でも物でも拝まなければおられなくなってくる。

 だけではない、自分自身の心までも拝みたくなってくる。自分自身の心が有り難うなってくる。というように信心が成長してくる。その拝まなければおられないということ。昨日ここでこうおいさみがありよりますよね。(?)

 私さっきほど霊神様にどうぞ一切のものが拝まれる信者。どうそ一切のことが拝まれる氏子に椛目御縁を、あ、合楽に御縁を頂く全ての信者氏子がです、一切のことが拝まれる信者氏子におとりたて下さいと言うて、お願いをした時にあの、かちーと大きな、あの時は(?)おいさみでございましたよね。ちょうど霊神様の御祈念をさせて頂いておる最中でございます。

 ちょうど私が合楽で御神縁を頂いておる全部の人がです、ね、(?)じゃない、拝まにゃおれんという人ならせて下さい。それも神様だけじゃない、あれもこれも一切ほんとに、(?)その人でも、さっき頂いた、塩水の御用をしておるのであるから、拝ましてもらえるような、信者氏子のおとりたてを頂く。

 頂きますようにということを、願った時にあのおいさみが来た。いかに、神様がその拝むことを(?)ことがわかります。それは神様だけ拝むじゃありません、今までこう難儀と思っておった、その難儀という問題でも本当なことが分かって来たら、難儀じゃないであり、めぐりのお取り払いであり、神様のいわば、神愛の現れであり、または、お気付けであり、または、御期待であるということが、いわば、肉眼をおいて心眼を開かせて頂いていくうちにそれが分かってくる。

 ですから、そのことも合掌しなければおられんのであり、拝まなければおられんのである。ところが、さっきのお話の中に申しますように、信心(?)といてから、わけ分からん、わけ分からんじゃない、その拝みさえすればよかと思ってから拝むだけのようなことになってきたんではです、私はやはり合楽の信心は拝む信心だと言われてもしかたがない、ね。

 拝まなければおられないという、その心が尊いのである。そういう私共にならせて下さいという願いがですね、神様の願いと一つになる。神様の心と同じになる。また、そこんところをどげん思うてもこの問題だけは拝まれん、この人達は拝まれない、それはことのしんそう、本当なことが分からないからであるから本当のことをそのことを通して分からせて下さいという修行。

 昨日、私前の晩がちょうど二時半ぐらい、休んでおりました。もうですから、風邪をひいてまた休んでないでも、昨日もう寒いの寒いのもう昨日ばっかり私は下がろうと思いました。それで、まぁいきなり下がるわけにはいかんから、もうどうぞ神様もう私十二時まで座らせて頂きます、その時間のですねいつも、まぁ大体えーこれ、お届け帳みない、百二十名順序までにお届けをいたします。

 ですから、それだけの人を早くお引けよせて下さいと、お願いしたんですよ。そしたらちょうど十時ごろまでに百二十名が終りました。は、これが(?)と思ったら、さー、それから次々とですね、ちょうど(?)下がったら、また戻って来る、またこう、とうとうまた十二時半までに(?)。

 その時じゃ竹葉会秋山先生のところの御霊様の御霊祭があってから、もうほんとに休まれる段ではございませんでした。はは、神様はほんとにあの修行を求め給うなと私思ったんです。ですから、私共(?)時には(?)。

 ですから、そういう例えばもうそのひとこたえん、もう、もうこっちゃ下がらやというごたる時もです、その例えばおかげを頂いてくうちにです、その十二時半に下がったんですけど、下がって行って分からせて頂くことはです、神様はいかに修行を求め給うておられるかということが分かります。

 (?)苦しいと思ったり、かわいいと思う。それはいうならばだから修行としてお受けになればですね、ほんとに修行じゃったなと、例えば日頃(?)あるならばさー、そういう(?)修行と続けておってです、晩時締め切ってみたら(?)ことにもなってくるのです。

 ですから、それは忙しいこともういやなこと、苦しいこともです、いうならば、おかげとして拝まなければならないことが分かってくるでしょうが。私共信心させて頂くということはです、神様だけを拝むことを教えられるじゃなくて、神様の働きそのものを心から拝まして頂けれる。なぜ拝まなければならないかという事柄、事訳を聞かせて頂くのです。

 ですから、もうまだ自分の周囲にあれも拝めんこれも拝めないというものがありますから、そのことを通してお互いが修行してみるとそのことが拝まれるようになってくるわけです、ね。

 そしてそこに、本当の意味合いにおいての拝み合いという、いわば、信心生活させて頂く者の、まぁ理想でございましょう。ね。理想郷でございましょう。拝み合いの生活。一切のものを拝み合える生活。

 親子が(?)、お客様が、ね、または隣りの人が、様々な問題そのものが拝まれるようになってくる生活。そういう生活求めての信心でなかなければならないということが今、感じますですね。どうぞ。